2011/06
建築家 ジョサイア・コンドル君川 治


[日本の近代化と外国人 シリーズ 6]


工部大学校教授、建築家
ジョサイア・コンドル
(東京大学工学部本館前)

 建築家は自分の作品を建物の形で後世に伝えることができる。前川国男の東京海上ビル、谷口吉郎の東京国立近代美術館、丹下健三の東京オリンピック代々木体育館、新東京都庁舎など、知られた存在だ。
 ジョサイア・コンドルが43年間に設計した建物は、80件を越すと云われている。初期の作品である帝室博物館や鹿鳴館などは関東大震災や取壊しなどにより残っていないが、今でも見られるのは、ニコライ堂(1891)、岩崎久弥邸(現岩崎庭園洋館 1896)、綱町三井倶楽部(1913:非公開)、古河虎之助邸(現古河庭園 1917)などがある。
 ジョサイア・コンドルは1852年に銀行家の子としてロンドンの裕福な家庭に生まれたが、父の急逝で生活が苦しくなり、奨学金を得て名門べドフォード商業学校で学んだ。その後建築家を志し、伯父のロジャー・スミス建築事務所で働きながら建築設計を学んだ。ロジャー・スミスはロンドン大学教授で王立建築家協会会員、建築学会会長となる有名な建築家であった。
 当時のイギリスでは、技術者は徒弟制度の中で教育を受けていた。コンドルも建築事務所で働きながらサウスケンジントン美術学校に通い、次にウイリアム・バージェス建築事務所で働きながらロンドン大学建築科で学んだ。1876年には若手建築家の登竜門である王立建築家協会の設計コンペに応募してソーン賞を受賞し、将来を嘱望される若手建築家となった。更に王立建築家協会の準会員に推挙された。
 ちょうどこのころ、日本の工部省は技術者養成の工学寮を設置して土木、機械、電信、化学、冶金、鉱山、造家(建築)の7科を設立したが、造家の専任教授が決まらず探していた。その白羽の矢を立てられたのが、ソーン賞受賞・王立建築家協会会員となったジョサイア・コンドルである。コンドル自身も祖父が旅行作家で東南アジアや日本に興味を抱いていたことから、日本からの招聘を受諾した。
 工学寮は1877年に工部大学校に衣替えし、弱冠25歳のコンドルが建築科に教授として来日した。来日した翌日から直ぐ授業が始まったと云うから、コンドル自身も相当に張り切っていたものと思われる。
 コンドルは工部大学校教授と共に工部省営繕局顧問や宮内省顧問などを兼任し、官庁建築も手掛けた。有名なのは鹿鳴館であるが、西洋建築にインド・イスラム様式を加味したデザインには建築家の評価が分かれ、井上馨外務大臣の鹿鳴館外交が破たんしたことの影響もあってか、失敗作と酷評する評論家もいる。しかしコンドルは、西洋建築をそのまま日本に移植するだけでなく、日本らしさ、東洋らしさが加わらなければ意味がないと考えたようだ。
 1888年に官庁顧問を辞任して建築設計事務所を開設し、三菱合資会社嘱託として丸の内のビジネスタウン設計を手掛けた。赤煉瓦造りの三菱1号館が明治27年(1894)に完成し、以後三菱2号館、3号館と赤煉瓦ビルが建設される。愛弟子の曾禰達蔵が三菱合資会社に入社して設計に加わり、辰野金吾に学んだ孫弟子の保岡勝也に引き継がれて大正3年には三菱21号館が完成する。丸の内ビジネス街はロンドンのビジネス街を彷彿させる「一丁倫敦」と云われていた。
 コンドルは日本の理解者であり、ヨーロッパへの日本文化の紹介者でもあった。彼は狩野派の日本画家河鍋暁斎に弟子入りして日本画を修行し、暁英の画号を貰っている。更には日本舞踊も習っていた。「日本のいけばな」や「日本庭園入門」などを出版して日本の文化をヨーロッパに紹介し、日本人女性と結婚して1920年、67歳の生涯を終えるまで日本で暮らした。護国寺の墓地にくめ夫人と共に眠っている。

コンドルの教え子たち

 建築科1期生は曾禰達蔵、辰野金吾、佐立七次郎、片山東熊の4人、コンドルの来日のときには工部大学校5年生である。彼らはやっと体系的な建築学の講義を受けられるようになり、その喜びが記録に残っている。
 曾禰達蔵と辰野金吾は唐津藩士の出身で、藩校英語学校で高橋是清に英語を学び、共に工学寮に入学した。片山東熊は長州藩士の出身、佐立七次郎は讃岐藩士の出身で、四民平等と云われてはいた時代だが、平民から工学寮に入学する者は稀であった。
 一期卒業生の辰野金吾はロンドンに留学して師のコンドルと同様に建築事務所で実務を学び、更にロンドン大学で学んで、帰国後は母校の教授となる。彼は日本銀行や東京駅など多くの建築を残している。
 曾禰達蔵は卒業後母校の助教授となり、その後三菱合資会社で丸の内ビジネス街の設計に携わる。
 片山東熊は宮内省に入り、東京国立博物館、京都・奈良の博物館を設計しているが、代表作は赤坂離宮(現迎賓館)である。
 佐立七次郎は工部省、海軍省、逓信省などの官庁営繕で活躍したのち、建築事務所を開設し、日本郵船顧問となっている。大阪中央郵便局や日本郵船小樽支店などが残っている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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